琉球絣の御絵図帳(九国博にて修復展示)
首里絣3種/首里花倉織/首里道屯織/首里花織4種
(首里絣=諸取切(ムルドゥッリ)/綾の中/手縞)
琉球紅型
かなり間が空きましたが、今回は首里織をご紹介します。首里といえば首里城の炎上、日本中に衝撃が走りました。首里城そのものもまさに宝物でしたが、城内に展示されていた数々の重要文化財なども焼失しました。出火の原因についてはいくつか指摘されていますが、仮に原因が特定されたとしても、首里城焼失の衝撃と喪失感は癒えるはずはありません。
しかし国内はもとより海外からも首里城焼失を悼む声とともに、再建を願って多くの義捐金も寄せられています。国も首里城再建を全面的にバックアップすることを表明していますので、再建に向けた動きが喪失の悲しみを徐々に和らげでくるのではないかとも思いますが、焼失した宝物類は二度と戻ってきません。
しかし人々の間で伝承されてきた宝物は、どのような災害、災難に遇おうとも消失することはありません。その一つが、沖縄各地で古くから伝承されてきた多種多様、多彩この上もない染織類です。
黄色地に赤の絣文様に代表される琉球絣はよく知られていますが、沖縄は絣だけではなく、色も織りも素材も多種多様な染織の宝庫です。いうまでもなく伝統的な染織は、色も素材も全て自然のもの。
11月に久留米で開催されていた日本の工芸展に、沖縄の様々な織物も出展されていましたが、その種類の多さとそれぞれに特性をもった美しさに感嘆いたしました。本展には出品されていませんでしたが、沖縄といえば、美しい琉球紅型。本土各地にも多種多様な染織が古くから伝承され、生産されてきましたが、一つの地域で、これほど多彩な染織類が生産されてきたのは沖縄以外にはないのではないか。
では、なぜ沖縄に多彩な染織が生まれたのか。13~15世紀にかけて、琉球王朝が東南アジアや中国と盛んな交易を行ったことに由来するという。古来からつづく織に加え、盛んな対外交易を通じて、今に残る様々な染織技術も伝わったという。つまりは琉球の多彩な染織類は、東南アジアや中国に近いという地の利と、開明的な琉球王朝の政策による産物だったということです。
今回はその中から首里城再建を願って、首里織をご紹介します。首里織は、「首里に伝わる種々の紋様や、絣織物を総称する名称として、昭和58年の通産省伝統産業法指定申請のさい命名」されたものだそうですので、この名称には、琉球の王府首里で織られていた多様な織物が包摂されています。
当サイトは絣をご紹介するのが基本ですが、今回は絣以外の織りも含む首里織としてご紹介させていただきます。沖縄には首里織以外にも、古くから非常に多彩な染織類が生産されてきました。今回ご紹介する首里織はそのごく一部です。本日は首里織に加えて、沖縄を代表する染物、琉球紅型(びんがた)も合わせてご紹介いたします。
偶然にも、九国博で開催されていた文化財修復展(正式名称:「住友財団修復助成30周年記念 文化財よ、永遠に」)に、琉球絣の見本帳である御絵図帳が展示されていました。九国博には文化財の修理施設が完備されており、古くなって損傷したものや、災害などで損傷した文化財の修繕も行っていますが、琉球絣の御絵図帳も修理されていたそうです。首里城に展示されていたのかどうかは分かりませんが、まずはこの御絵図帳からご紹介します。
なお、日本工芸展では写真禁止でしたので、首里織画像は那覇伝統織物協同組合様のご了解を得て、同サイトの画像をお借りいたしました。