着物は日本の伝統的衣裳だとはいえ、男性にとってはもとより、女性にとっても特殊な場合以外には、ほとんど着る機会はないというのが現状だと思います。ましてや着物の柄や織に特に注意を払って観察するという機会や興味は、皆無に近いのではないかと思います。わたしも同様で、ただひたすらタンスに眠りつづけている着物の織や柄も忘れてしまいそうなほどに、ごく身近にありながら遠い存在になっていました。
そんなわたしが特に着物の柄に興味を惹かれる、ある出来事に遭遇しました。2015年、福岡市博物館で徳川家康没後400年を記念した「大関ヶ原展」が開催されたのですが、その時に見た合戦絵がきっかけでした。数ある合戦絵の中に足軽の群像を描いた絵があったのですが、その足軽たちが身につけている着物の図柄が全て異なっており、同じ図柄、文様は一つとしてありませんでした。
秀吉の治世を経て、長らく続いた戦国時代に完璧に幕を下ろすことになる最後の大合戦ですので、おそらく農民たちも動員され、着物も彼らの自前のものだったのかもしれませんが、合戦時の現実を反映したものかどうかとの詮索とは別に、足軽の群像が密集して描かれているにもかかわらず、彼らが身につけている着物が、一人一人異なった図柄に描き分けられていることには驚きかつ感動しました。
絵師の名前はありませんでしたので、地方の無名の絵師だと思われます。細部の描写は絵師の想像力によるものだと思われますが、その絵に描かれたそのままの絵柄、文様かどうかは別にしても、当時の着物には非常に多彩な、多種多様な図柄、文様が描かれ、織り込まれていたことを反映したものではないかと思われました。
もちろん、合戦場面を描きながらも、絵画的な美しさを際立たせるために、下層の足軽たちの着物の柄までをも、一つ一つ違う絵柄に描き分けた可能性もなきにしもあらずとはいえ、合戦に駆り出された当時の足軽兵たちはみな、思い思いの自前の出で立ちで陣に参加したという現実があっての、着物の柄の描き分けではないかと思われます。
それまで目にしてきた合戦絵は巻物が大半でしたので、小さいということもあり、着物の図柄までは目に入りませんでしたが、本展の絵はみな額縁入りの大きな一枚絵でしたので、細部まで目に入ってきます。特に足軽の群像を描いたこの絵は色彩鮮やかで、絵画を見ながら着物の図柄に目が釘付けになった初の作品となりました。足軽という下層民と美しい絵柄の着物というギャップが、特に印象を強くしたのだと思います。
しかし日常着として身につける着物も、一幅の絵に匹敵するぐらいの美的価値があるのではないか、その発見に遭遇したのが、大関ヶ原展でした。合戦という非日常的な、およそ美とは真逆の世界に発見した、日常的世界に宿る美であるだけに、なお印象が強かったのだと思います。
以来、それまでほとんど関心のなかった着物の文様、図柄の美にも関心が向き始めますが、まだまだ漠然としたものでした。とろが、ある日、福岡県立美術館で入手した「日本の絣・展」の図録を見たのがきっかけで、一気に絣に対する関心が高まりました。いくつかの絣の専門書にも目を通しましたが、絣は現代という時代を読み解くヒント満載だと直感し、当サイト開設を思い立った次第です。
絣に惹かれて染織関連の書物も少し読みましたが、日本で生まれ、受け継がれてきた染織の種類の余りの多さには心底驚かさせられています。染織品には大きく分けて、文様を織り出した文様織(織物)と、織った布に文様を染め出した文様染(染物)の2種類があり、それぞれにまた多種多様な染織品がありますので、一気に全てにアプローチするのは不可能なほどです。
染物の代表は琉球紅型、京友禅や江戸小紋など。京鹿の子絞は絞り染の代表です。手描きの京友禅は現在では最高級着物の代表ですが、何とその源流を辿れば、江戸時代前期に何度も出された奢侈禁止令を受けて考案されたものだったという。それまでは金糸、銀糸,金箔などを多用した、今なら結婚式ででも登場しそうもない金襴緞子(きんらんどんす)調の超豪華な金ピカ着物が作られていたらしい。
しかし禁止されたからといって、日本人は模様のない着物を着たりはしません。なんとか実際の金を使った金ピカ着物に替わる、美しい着物を作り出せないかと様々な工夫を重ねた結果、腕のいい絵師が絹の着物に絵を描いて誕生したのが京友禅だったという。現在からは想像もつかない友禅誕生秘話ですが、日本人の創造力の豊かさも伝わってきます。
友禅誕生秘話に限らず、日本各地で織られてきた、着物の素材となった多種多様な染織の歴史からは、もう一つの日本の歴史や、その時々の日本と世界との関係も見えてきます。着物は貴賤の別なく絶対的に必要な日用必需品ですので、歴史のメインストリームからはこぼれ落ちた歴史が、着物や染織を通して姿を現すのはある意味当然だと思われます。のみならず、日本文化の多様性も、北から南までの多種多様な染織の数々に映し出されています。
他に類似品がないという特異な織の佐賀錦(佐賀県)、奈良時代からつづくという桐生織(群馬県)、伊豆八丈島の黄八丈(東京都)、木綿縞織物の代表である唐桟織(とうざんおり・千葉県)、会津縞とも呼ばれる会津木綿(福島県)、男物袴地で有名であった仙台平(宮城県)、庶民の知恵の詰まった津軽子ぎん刺し(青森県)、アイヌ伝統のアットゥシ織(北海道)、藍染染料の代名詞ともいうべき阿波藍(徳島県)等々、これらは日本の染織のごくごく一部です。
日本各地でそれぞれの風土の中でから生まれてきた多種多様な染織とそれらを形にした着物の数々。おそらく、着物や染織は、日本人論の新たなテーマの源泉の一つにもなりうるのではないかと思われますが、着物は余りにも身近でありながら、現代では非常に縁遠い存在となっていますので、学問分野においてもメインストリームからはこぼれ落ちた、傍流の存在でした。
しかし忘れられた存在と化した着物と染織は、日本の歴史や日本の文化を考える際の、重要なヒントを与えてくれる貴重で豊かな文化遺産です。とはいえ、日本の着物の染織は余りにも種類が膨大です。本サイトではまずは、貴賤の別なく広く普及した織物、「絣」に焦点を当てて、日本の着物のもつ豊かさの一端を、画像を通してお伝えしたいと思います。合わせて絣の世界的な広がりとその多様性にも迫りたいと思います。
なお今回は、絣の画像のご紹介はトップページのタイトル画像にとどめ、本格的な絣のご紹介は次回からといたします。
絣ラボ 久本福子